2009年 01月 28日 ( 1 )


学びと暗黙知

さぁっ、どんどん残り時間は少なくなるよ!!
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今日は内田樹さんのブログ「内田樹の研究室」を。
「学びと暗黙知」より。
http://blog.tatsuru.com/2009/01/28_1413.php

「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。

中略

初等・中等教育課程の相当部分は「暗黙知」開発のためのプログラムであるべきだと私は思っている。
そこで「今は何の役に立つのかわからないけれど、いつか自分の命を救うことになりそうなもの」を探り当てる感覚を練磨するのである。
それが「学び」の前段ということである。
これが整っていない子どもは「今学んでいることの有用性」(それは「それがもたらす年収の増額分」としてのみ把握されている)についての確信が揺るいだ瞬間に、自動的に学ぶことを止める。
私たちは過去30年にわたって、子供たちをそのように訓練してきたのである。
「あらゆる教育プログラムの効果はエヴィデンス・ベーストで示されねばならぬ、数値的にその効果が示せないような教育プログラムは無価値である」という妄想に日本の教育行政の当事者たちも教育評論家も教育ビジネスマンも取り憑かれている。
これは「病気」を通り越して、ほとんど「狂気」と呼ばねばならないと私は思っている。


う~ん。なるほど。

「なぜ学ぶのか?」
「何を学ぶべきなのか?」
は非常に大切な問いかけである。
そして、その問いかけの答えは、自分で見つけ出すものであり、
それができるできるようになるために、我々は学ぶのだ。

にわとりか、たまごか、といったところでしょうか。
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by ton2_net | 2009-01-28 16:25 | 教育学 | Trackback | Comments(2)

Ooishiです。もはや社会人です。このブログ記事は、私個人にのみ帰属するものです。なぁんちゃって。
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