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カテゴリ:教育学( 16 )


ランディ・パウシュの最後の授業

「最初に、僕の現実を紹介します。
 僕の膵臓には、10個ほどの腫瘍があります。
 余命は、3〜6ヶ月。

 現実は変えられません。
 だから、現実の”受け止め方”を変えるのです。」


この台詞から始まる講義が、2007年に話題になった。
ランディ・パウシュの「最後の授業」だ。
e0126903_051338.jpg

写真はteck Crunck japanより


カーネギーメロン大学の終身教授だった彼を紹介するとき、
彼の母親は笑いながらいつもこう言った。
「この子ったら、”ドクター”なのに、家族の風邪ひとつ治せないんですよ!」
自らを、良い両親、師、友人に恵まれた、と語り、
それが夢を実現するために大切な要素だ、と話した。

しかし、周りに応援してくれる人がいても、夢や目標を追う中で、
壁にぶちあたることもある。
そんな時、人はあきらめたくなったり、その壁を言い訳にしたりする。

しかし、講演の中で、彼は言う。
Brick walls are there for a reason;
they let us prove how badly we want things.
(壁は、僕たちがそれをどれだけ強く望んでいるかを示すために有るんだからさ。)



この講義がYou tubeにアップされるや否や、600万を越えるアクセスがあったという。
そして今なお、この講義を見る人の心に、
夢を追い続ける勇気と、まわりにいる大切な人を信じることの大切さを教えてくれる。

物理学者のリチャード・ファインマンが、
「死んだ後はどうなると思うか」という質問に対してこう言った。
「どうも僕はいろんな人の心の中にいて、薄っぺらく引き延ばされちゃう感じかな」

「死神は長生きしたって倒せないんですよ。死神は、”良く生きて”倒すもの。」
と語ったランディは2008年7月25日に、家族にみとられながら自宅で逝去したが、
講義を通して今なお、彼の「Edutainment(Education+Entertainment)」は続いている。
ファインマンさんと同じく、彼の言葉は、たくさんの人の心の中で輝き、生き続ける。

ランディ・パウシュの「最後の授業」


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by ton2_net | 2010-09-29 00:18 | 教育学 | Trackback | Comments(0)

教育について@虎ノ門

トモさんのご紹介に預かり、教育界でご活躍されている方を訪問。
どうも貴重な体験をさせていただき、ありがとうございました。
なんと元文部省事務次官の方です。

人はなぜ学ばなければならないのか。
一つには、「生きている」という実感を得るために学びが必要だからではないか、と思う。
(今日のお話とあんまり関係ないかもしれないですが。)

現代社会において苦しい状況は、毎日3時間睡眠で休みがなくて…とかいう「環境」よりも、
「何のためにやっているのかわからない」ことを、「やらされている」感覚だったり、
「何にもやってない」と思うことかもしれない。
守りに入るということ。目標が無いということ。

自分がどうしてもやりたいことがあって、寝食もままならず、他人から見たら「可哀相」と
思われる人でも、本人は至って「幸せ」な人もいる。
どうして幸せに感じられるのかといえば、そういう生活は確かに苦しいが、その困難を超えた
時の喜びや充実感には「生きている」という実感が伴うからなのかもしれない。
そして、「どうしてもやりたいこと候補」を見つけるのにも、「やりたいことを実現するパス」
も、「学び」無くしては実現し得ない。

「自分から学びたいと思える候補とたくさん出会う環境」、
「自分から学ぶ方法を身に付けること」
が必要とされていると思う。


今日の会にはトモさんのお知り合いの社会人の方も同席されていた。
その方が、
「教育ってみんな同じような問題意識を持ってるけど、いざ”誰がやるの”って言った時に誰も手を
 挙げないんだよね。」
とおっしゃっていた。
教育は、誰しも何らかの形で受けて育つので問題意識は感じるが、身近すぎて「誰かがやるだろう」と思ってしまうということなのかもしれない。


あと、もう一つ思ったのは、自分が一々こういう場で硬くなってんなぁ、ということ。
多分面接とかでもこんな感じなんだろうな。
エントリーシートもそうだし。
硬いって事はなんか演じたり作ってるって事だから、もったいない。
その場で即座に捏造したものよりはまだましなものが自分の素のところにある気がするなぁ。
硬い硬い。
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by ton2_net | 2010-03-11 04:46 | 教育学 | Trackback | Comments(0)

学生実験

生物系の物理学実験のTAが終わった。

結構割のいい仕事でしょう、と担当の先生が出勤簿にはんこを押しながら聞いた。


しかし、そうでもない。


この担当の先生についているときは18時過ぎには終わるので確かに悪くないのだが、
担当の先生がいない時につくことになっている若い先生の時には、最大延長23時45分の長丁場。
もちろん、バイト代は18:00で打ち切りでサービス残業。

実験開始が13時45分だから、なんと10時間勤務である。

そのことを話すと、担当の先生が、
「やりすぎでしょう。
 来年、実験取る人が減りそうだなぁ。」
と言った。


しかし、TAをやりながら生徒に話を聞いてみると、「最悪」と
思っている生徒ばかりでないことも分かる。

実験自体は、実は15時くらいには終わっている。
きちんと解析までやらせるので、レポートは随分楽になり、内容も充実するはずだ。
授業中も、
「データとったら早く帰ってもいいけど、その代わり、レポートはきちんと書いてね」
と言っているので、用のある生徒はさっさと帰っている。


ベテランの先生の中には、授業終了の18時を過ぎると、
(まじで)生徒にプレッシャーを掛け始め、酷い時には自分でやってしまう。
生徒が自分でやろうとすると、「邪魔しないでくれる?」と言うこともある。
ここまで来ると、見ていてちょっと面白い。

そういうことに直面した多くの生徒は、「わーい。早く帰れる。」とは思わず、
腑に落ちない違和感を持ち、自尊心を傷つけられたような気になり、そして少し悲しくなったりする。


もちろんだらだら時間をかければいい、というものではない。
しかし、「おれはお前らが理解するまでとことん付き合う覚悟だよ」
という姿勢を見せることてもらえることは、生徒にとって貴重なことだ。

彼らも、せっかく大学まで来たんだし。


あきらかに単位だけ欲しくて、あからさまにやる気ない子が22時過ぎて呆然としているのを見ると
「かわいそうに」と苦笑してしまうが、2学A棟の入り口が閉まって、窓から脱出していく時、
少し達成感を覚えているように感じられる生徒もいる。


誤差の伝播則なんて大多数の人たちには生きていく上で必要ないが、
これも10年後には、
「一回、夜の11時まで学生実験して窓から脱出したことあったな」
という良い思い出に・・・

なるとは思わないが、「教える」ということについて少し考えさせられた出来事だった。
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by ton2_net | 2009-11-17 00:37 | 教育学 | Trackback | Comments(0)

おせっかいであること

例にもよって内田樹さんのブログなのだが、「書いたりしゃべったり」という記事が載っていた。
いいな、と思うところだけ引用。

「教わりたい」というニーズがあるので、
それにふさわしい「教育コンテンツ」を有償で提供するというのではない。
まず「教えたい」という「おせっかい」があり、
それが「教わりたい」というニーズを作り出すのである。

私自身が自分の教師としての原点と考えているのは、
1980年代に瀬田で自分の道場を開いた頃の経験である。
会員はわずか数名だった。
稽古は木曜日の午後6時半から、
瀬田中学校の体育館を借りてやっていた。
木曜日は大学の勤務日だったので、
いつも6時に仕事を終わらせてから、
バイクで飛んで帰って道場に向かっていた。
台風の日、雨の中、大学から帰り、体育館に向かい、
無人の体育館に一人で18枚畳を敷いて会員が来るのを待った。

誰も来なかった。

1時間ほど待ったところで近所に住んでいる中学生がそおっとドアを開けて体育館の中を覗き込んで、びっくりしたように「あ、先生、やっぱり今日も稽古あったんだ」と言った。
「台風だからさ、もうないのかなと思って。」
いつだってやるよと私は答えて、彼と1時間ほど差し向かいで稽古をした。

その日、外で台風が吹き荒れているときに、無人の寒々とした体育館で誰かが合気道を稽古しに来るのを待ちながら、自分はどうして「こんなこと」をしているんだろうと考えた。
「教わりたい」という人がおらず、「教えたい」という人だけがいるというのは非合理なんじゃないかと思った。
でも、「合気道を教わりたい」という人が何人か集まって三顧の礼を尽くさないと「教えない」というようなことを条件にしていたら、合気道は永遠に普及しない。

教えるというのは本質的に「おせっかい」であり、
無人の道場で「教わりたい」という人が来るのを待っているというのが、
あるいは「教える」ということにおいてはごく自然なかたちではないのか、とそのとき思った。


”教えるというのは、本質的に「おせっかい」である”というのは、言い得て妙であると思った。
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by ton2_net | 2009-10-05 14:05 | 教育学 | Trackback | Comments(0)

自由、このすばらしきもの

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写真は昨日の練習後、koba.ken、あっさいとともに餃子屋に行ったJAPです。。。
なんかどっかの美術館にある絵みたいだ。

昨日はPeter先生とのPrivate lessson。
45minutesのshort versionなので、英語のメールの書き方について。

書き始めは
Dear (name)
でよいのだが、このとき、
Dear (first name) or Dear Dr.(Mr. Ms. etc) (Family name)
で、
Dear (Family name)
とは普通書かない。

また、文末には日本語の「敬具」にあたる
Sincerely,
等を書くが、例えば感謝の手紙なら、
Thanks
Thank you
Thankfuly / with thanks
appreciatively
Gratefully
などがあり、下に行くほど強い感謝を表す。
Gratefullyなどは気軽に使ってはイケナイ。

他にも謝りのメールなら、
sorry
sincerely
with regret
apologetically
Remorsefully
などがあって、同様に下に行くほど程度が強くなる。

気がついたら時間オーバーしていたので、打ち切って研究室に帰る。
帰りのエレベーターで中国人の留学生と一緒になり、話しかけられる。
「この階で、ジュギョですか?」
「? ああ、授業じゃないですよ。先生に会いに来たんです。
 何を研究されているんですか?」
「チソウの研究です。まだ日本語ワカラナイので、勉強している。」

とにかく、何かを勉強するためには、使ってみるのが1番いいように思う。
この留学生も、日本語を使うために見ず知らずの人に話しかけているのかもしれない。
その積極性に、乾杯だ。

家庭教師へ。
今日は犬養道子(いぬかいみちこ)の「自由、このすばらしきもの」を読む。

テーゲレン湖のそばで、ちょっとした事が起こった。案内をしてくれたドイツ人一家の(それはビール工場に勤める労働者の一家であった。)八つになる男の子が、後生大事に抱えてきていた、去年だかの誕生祝いにもらったというトランジスターラジオを、突然かけたことである。天地の沈黙が破られて、音の波が矢のように辺りを駆け巡った。---が、ほんの一瞬だった。母親が急いで男の子の肩に手をかけ、父親がはっきりした調子で、ここでは音を立てるなと言ったからである。
「静かに山を見ている人もいるんだよ。」
「だって、」
と男の子は執着がましく言った。
「僕は聞きたい。」
「静かにしていたい人もいる。音を聞きたい人もいる。だから、耳に当てて、聞きたい人だけが聞く装置がついているんだよ。」
 男の子は納得した。湖畔の小道には、また静寂がもどった。静寂の中で山の峰は、いよいよ青く、いよいよ迫るように見えた。街中を離れて出かけてきた人間たちの心をいやし、魂を洗い、新しい元気を休息もろとも与える恵みに満ちた荘厳さが感じられた。---

「自由、このすばらしきもの」犬養 道子


秀逸な文章である。無駄が無く、しなやかである。「聞きたい人」、「聞きたくない人」両方が存在することを認め、お互いの自由を尊重すること、そして、それを子どもに教えようとする姿勢が、見事に描かれている。こういう文章を書く人が、物書きで飯を食っているんだなぁ、と感心する。
中学生の教え子には、ファイルをプレゼントして、教材をファイリングしてもらっている。三浦哲郎だとか、犬養道子だとか、芥川龍之介だとか、今はよくわからなくて(そして教え方が悪いが故に成績があがらなかったとしても・・・)いつか大きくなった時そのファイルを開くことがあれば、きっと何か感じることがあるだろう。そして、たとえ二度と読み返さなかったとしても、優れた文章に触れるということは、なにかしら彼の人生において(たとえ目に見えないようなちいさなことであっても)いい影響を与えるに違いない、と思っている。
いつか、ファイルを見返してくれて、ついでに僕のことをちらっとでも思い出してくれて、その上、
「あぁ、あの時は分からなかったけれども、これはなんていう素晴らしい文章なんだろうなぁ。」
と思ってくれる、までは贅沢な望みだろうけど、まぁ、懐かしいな、位に思ってもらえれば、冥利に尽きる。

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by ton2_net | 2009-05-26 23:02 | 教育学 | Trackback | Comments(0)

ヘルマン・ヘッセ

昨日は家庭教師だった。
中学生の子にはヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」の導入部をつかって1時間話した。
”わたし”の見せてくれる蝶の収集に対して、”不愉快ででもあるかのように口早に”「もう結構」という発言をするあたりで、「楽しいはずの蝶収集なのに、なぜ?」という疑問が湧いてくる。
しかも、あたりが暗くなり、ランプにもかさをかけて、お互いに顔が見えない。
外は夜の闇に包まれて、ただ変えるの声だけが聞こえる。
苦い経験を話すためのセットアップが、実にたくみに組まれていく感じがする。
さすがノーベル文学賞受賞者。

その後は、高校数学。
解と係数の関係について。
ついでに、AIから教えてもらった「数直線の長さ比べ」の話をした。
証明がビジュアル的なのが、この問題のいいところだ。
数学はあまり得意ではなさそうだったが、数直線の話には興味を持ってくれた。

教えるということは難しい。自己満足で終わってしまわないように気をつけなくてはいけない。
でも、難しいけど、やっぱり面白い。今のところ。
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by ton2_net | 2009-04-23 10:08 | 教育学 | Trackback | Comments(0)

1番大切なことは、書いてない

installの問題が一つ解決した。
今まで、

g77 command not found.

という表示が出ていたが、それは、回避できた。

それで、喜んだのだが、次の瞬間、

f77 command not found.

という警告...
gだかfだか知らないけどさ・・・。


13:00から、学術情報メディアセンターで、
理研とテレビ会議のテストをした。
IPアドレスを入れるだけ!でつながる。
回線は良好だった。すごい。

ちなみに、学術情報センターでは、ポスターセッションなどのポスターの印刷も行なっていて、
外部で発注するよりも10倍程度安くなるらしい。新歓にも使える。
みんなも、活用しよう!!電話予約が必要です!
(たとえば、宮崎あおい巨大ポスターとかも作れる・・・。)


研究室の黒電話が、不吉な泣き声を上げた。
「・・・はい。」
「大石君?」
担当教官からだ。
「そうです。」
「ちなみに、へへ、今、M1何人いる?」
いつもと様子が違う。声がにやにやしている。
「・・・僕一人ですが」
「おほお、これも何かの縁だねぇ」
「・・・なんですか?」
「実は、今度担任になることになってねぇ。
留学生がチューター欲しいっていうんだよ。
任せていい?」
「・・・」
そういうわけで、カザフスタンの友達ができそうだ。


家庭教師第2回目。
今日は北杜夫の「少年」を読む。
面白い。小説はやっぱり面白いし、ものを教える、ということも面白い。
しかし、4年になって研究室に入ってから、小説と科学も、似ているところがある気がする、と思った。
どちらも、何かを表現したいことがあって、そして言葉か、あるいは数式を持ち出すのだ。
そして、どちらも「1番大切なこと」は書いてない。
それは読み手によって変わる。
読み手が、言葉や、数式やevidenceから自分で作り出すものなのだ。

そういうことを言ったら、中学生のT君は、
「ふぅむ」
と言った。

アメリカにいるikaちゃんから、メールが帰ってきていた。

I know many members have already left Tsukuba... Ive been feeling very close to the Sotugyo-sei this year, so it was sad that I couldnt talk a lot before they graduate and say thank you and goodbye. But, as you said, the end is always beginning. My stuy abroad at Wash U is almost over, but Im kinda excited about my "new" life in Tsukuba and meting new students etc.


Yes, the end is always beginning!!

さて、0:00に、社会人ちょむがうちに登場するようです。
ちょむに会いたい人は、ぜひ連絡を!!

ちなみに、明日は和光市理研一般公開です!!暇な人はぜひ行きましょう(僕は集中授業でいけませんが)。
面白いよ。
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by ton2_net | 2009-04-17 22:32 | 教育学 | Trackback | Comments(2)

学びと暗黙知

さぁっ、どんどん残り時間は少なくなるよ!!
☞http://www.tac.tsukuba.ac.jp/~z0801/

__
今日は内田樹さんのブログ「内田樹の研究室」を。
「学びと暗黙知」より。
http://blog.tatsuru.com/2009/01/28_1413.php

「学び」を可能にするのは、この「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
この力がなければ、子どもたちは「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能」だけを選択することになる。
そして、「子どもでもその有用性や意味のわかる知識や技能だけ」では私たちは困難を生き延びてゆくことができない(それが「子ども」という言葉の定義である)。
私たちの社会が組織的に破壊してきたのは、子どもたちの中に芽生えようとしているこの「意味のわからないものの意味が予見できる力、有用性がいまだ知れないものの潜在的な有用性がかすかに感知できる力」である。
マイケル・ポランニーはこれを「暗黙知」と呼んだ。

中略

初等・中等教育課程の相当部分は「暗黙知」開発のためのプログラムであるべきだと私は思っている。
そこで「今は何の役に立つのかわからないけれど、いつか自分の命を救うことになりそうなもの」を探り当てる感覚を練磨するのである。
それが「学び」の前段ということである。
これが整っていない子どもは「今学んでいることの有用性」(それは「それがもたらす年収の増額分」としてのみ把握されている)についての確信が揺るいだ瞬間に、自動的に学ぶことを止める。
私たちは過去30年にわたって、子供たちをそのように訓練してきたのである。
「あらゆる教育プログラムの効果はエヴィデンス・ベーストで示されねばならぬ、数値的にその効果が示せないような教育プログラムは無価値である」という妄想に日本の教育行政の当事者たちも教育評論家も教育ビジネスマンも取り憑かれている。
これは「病気」を通り越して、ほとんど「狂気」と呼ばねばならないと私は思っている。


う~ん。なるほど。

「なぜ学ぶのか?」
「何を学ぶべきなのか?」
は非常に大切な問いかけである。
そして、その問いかけの答えは、自分で見つけ出すものであり、
それができるできるようになるために、我々は学ぶのだ。

にわとりか、たまごか、といったところでしょうか。
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by ton2_net | 2009-01-28 16:25 | 教育学 | Trackback | Comments(2)

疑問を持つこと

なぜ勉強しなくてはいけないのだろう?

このような疑問を初等教育の段階で持ってしまった子にとっては、
今の学校教育の制度は住みにくい環境なのではないかと思う。

おそらく、「良い学歴」を持つことを考えた場合、
疑問を持たず、ただ「楽しいから」、良い成績をとると「ほめられるから」というような
純粋な動機を持てた子どものほうが、断然有利なのではないかと思う。
その明確な分岐は、どこにあるのだろうか。

ワンゲルに入って勉強したことの一つに、
「ある程度の組織の決定事項には、必ず背景がある」
ということがある。
組織の中に属していると、なんでこれはこうなっているんだろう?
と疑問を抱くときがある。
ただの慣例で、もっと他によい方法があるのではないか?

しかし、そのような模索は、すでに過去になされていることが多い。
そして、新しい方法を試しても、結果としてまたそこに行き着く。
その決定事項は、一つの解であったということだ。


「何で?」を連発する人にとって、この世の中は兎角住みにくい。
何で結婚しなくてはいけないの?
何で定職に就かなくちゃいけないの?
何で単位とらなくちゃいけないの?という人もいるけど、まぁこれは別か。

そのような素朴な疑問に対して、多くの世の人は、
「当たり前だろ!」
という感情を抱く。

結婚、就職はして当たり前、というのも、
今の社会が出来る中で出来上がって言ったひとつの強力な解なのであろう。
より良い解を求めて、今、世の中の「当たり前」に背を向ける人も出て来ている。

「これはひとつの実験ですね」
と最近話をした準教授の方は言っていた。
そのような壮大な”実験”の結果が、ここ5年から10年ほどで社会に現れて来るだろう、と。


何で勉強しなくてはいけないの?
今でならなんとなく理由はつけられると思う。
しかし、もっと小さいときにそれを考え始めてしまっていたら、
今ここにいられたのかどうか、僕は疑問だと思う。

ふと疑問を持ってしまって勉強する意味を見出せくなった子ども。
ただ純粋なモチベーションを持続することで勉強を続けることが出来た子ども。
僕はその差は、はじめは紙一重なのではないかと思う。
その差(学力の差のことではないよ)は、年齢につれて顕著になってくるとしても、
最初の段階では本当にすれすれなのではないかと思う。

「つべこべ言わずに勉強しろ」という大人が、僕は大嫌いだった。
今でも嫌いだが、しかし、一理あるとも言えるのではないか、実際の話?
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by ton2_net | 2009-01-14 07:39 | 教育学 | Trackback | Comments(2)

「わからない」がぼやける前に

教育実習に行っています。

僕の行っている学校は非常に進学実績の高い学校で、
非常に勉強になる。
毎日発見がある。

授業を参観させていただいて強く印象に残るのは、
「わからない」ことをその場で解決しようとする姿勢だ。

わからないことが出てくると、授業中であっても
「それは違うだろ。」
「なんでそうなるんだ?」
と隣近所と議論が始まる。
記憶に新しいのは、僕の担当の先生が
「円はすべて相似。じゃあ、放物線がすべて相似というのはわかるか?」
という発問を投げかけたときだった。

横で授業を受けていた生徒が、
「相似じゃないだろ」
と後ろの子に話しかける。
それに対して先生も注意はしない。
むしろ、中には「授業中は静かにするな」と生徒に話す先生もいた。

さらにもう一人加わって、あ~だこ~だ行っているうちに、
「そうか、放物線は頂点のところで絶対重なり合うから
 そこを拡大してやれば必ず同じ形になるんだ」
と気が付いた。

はじめから何もかも知っているわけではない。
出会った疑問をほうっておくのではなく、
その場で考えて解決しようとする力があるのだと思った。


もうひとつ記憶に残っている場面は、
授業の中で”孤立系”という概念の説明が会ったときである。
孤立系は、粒子の出入りはあるが、エネルギーの出入りの無いような系のことだ。

その説明に、先生が、
「雀荘でやくざがマージャンしているとする。
 雀荘の外から金は入ってこなくて、金の総額は雀荘の中で一定だよな?」
というたとえを使ったときに、生徒から
「いや、先生、雀荘の親父に場代をとられます」
というコメントがあがって、笑いが起きた。
しかし、次の瞬間に隣の生徒が
「いや、親父も系にひっくるめちゃえば、それが孤立系になるんじゃない?」
と言ったので、クラス全体が
「あぁ、そうか、そういうことか」という空気になった。

ほうっておいても勝手に理解していくところに、すごさを感じた。


50分×2で一コマで授業しているが、大変エネルギーを使う仕事だと思った。
あと一週間がんばろう。

もう教育実習終わった方々お疲れ様でした。
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by ton2_net | 2008-06-08 13:26 | 教育学 | Trackback | Comments(0)

Ooishiです。もはや社会人です。このブログ記事は、私個人にのみ帰属するものです。なぁんちゃって。
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