言葉も、行為も、絵も、音楽も、一つの写ったもののような気がするんだよなぁ。影っていうか。
ほんものは、ほんものなんだよなぁ。なんていうか、それそのもので、おきかえることができやんのじゃない?
それを置き換えることを忘れてほんものをほんものとして捉らえる時に、感動するとか、集中することができるんちゃうかなー。
「自分って何?」っていう問いに対して答があるとしたら、その答は答じゃないわけやん?だって答は、形がなくて、言葉にならんくて、答ではないはずやからさ。
自分が自分であることを忘れる時に、それがはっきりした自分やん。自分が何かをかんがえるってーことは、自分を外から見とるから、そのとき自分は自分ではないわけで、まわりをぐるぐる廻るだけのようなもんやんか?
ほんものは、それがそれって忘れる付き合い方の中にあるような気がするなぁ。
うまく言えやんけど、これも今僕の心の中にあるぐにゃぐにゃのもんの投射なわけやな。影を落として、誰かに伝えようとする。自分がもう一度それを見ようとするために。
だから、こんなん影やから、首は逆の方を向いてみてくれーって言いたかっただけ。ありがとう。