「好奇心」という言葉で連想するのが、
「原人の登山」なのである。
原人の時代なので、登山とかもう頭おかしいとか思われている。
毎日、生きて行くだけで精一杯なのに。
でも、原人はどうしても登りたいと思ってしまう。
きれいな奥さんもいる。
かわいい子どももいる。
仕事も軌道に乗り始めた。
(矢尻作りとかタロ芋栽培とか。)
自分でも馬鹿だと思う。
それでもタロ芋畑から見える、あの山に登ってみたいと思う。
そう思うのは、山の向こうに何が有るのか、見てみたいと思ってしまったからだ。
原人は、海と山にはさまれた集落で産まれた。
みんなその集落で産まれて、その集落で死んで行く。
長老は、祖先は海からやってきたのだと言った。
山をこえたものはいないし、越えようと思うような愚かな人間もまた、
これまで一人もいなかったのだと。
夜明け前、原人は妻や子ども達を起こさないように、そっと家を出る。
かやの家を出るとき、もう一度だけ家族の姿を目に焼き付ける。
家を出て、南に向かう。まだあたりは暗い。
大きな鳥の鳴き声が聞こえた。
…これが「好奇心」という言葉を聞いた時のイメージです。
原人はどうなったんだろう。
ちゃんと山に登れたかな。
山から、何が見えたかな。
無事に帰れたかな。
帰って来て、家族や村の人に何を話したんだろう。
きっと、誰に何を言われても、どう思われても、
もうどうしようもない「衝動」を実行してしまう人が
何かを少しずつ変えて来たんだろうなと思います。
(良い方向とは限らないが。)
どんなに小さくてもいい。
誰に何を言われても、でも自分はこれをしてみたい、と思う何か。
走ることかもしれない。
何かを書くことかもしれない。
絵を描くことだったり、
もしかしたら、子どもを育てることだったりするのかもしれない。
自分の中の、そういう「声」に耳を塞いでしまわないで、
ちゃんと聞く耳を持ちたいなと思う。
それをやるかどうかは別にして。
多くの人々が行き来する道。
海を背にして、採れた海草や魚を運んでいる男がいる。
広い土地で育てた農作物を、海に向かって運んでいる人もいる。
彼らの足下をよく見てみると、高く延びた草に埋もれて、
人々から忘れ去られた小さな石碑があるのがわかるだろう。
そこに書かれている文字は、もう風化して誰にも読むことができない。
あるいはそれは、ここを初めて通った、あの原人の名前だったかもしれない。